グイノ神父の説教

 

2023年 

 A 年

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        年間第13主日  A年  202372日  グイノ・ジェラール神父

             列王記4,8-1114-1      ローマ6,3-48-11       マタイ10,37-42

 今日の朗読は、歓迎すること、人をもてなすことを再発見するよう私たちを誘います。 預言者エリシャへの歓迎は、彼を迎え、もてなしをした夫妻の命の泉となりました。もうすぐ生まれてくる息子が老人になる彼らを支えるでしょう。同様に、イエスの弟子を歓迎する人は誰でも、イエス自身と彼を遣わした父を歓迎します。実に、この人は自分の内に命の泉を歓迎しているのです。たったコップ一杯の水だけでも神の報酬を受けます。なぜなら、この小さなもてなしは水を与えた人を「キリストの弟子」にするからです。

 ご存じのように、絵画を見るときには、その絵を近くで見るのではなく、一歩下がってその絵を見ると新しい発見があります。同様に、イエスの言葉を理解するために、聞いた言葉から一歩さがる必要があります。さもないとその言葉が躓きになる可能性があります。今日の教えを通してイエスが聞かせているように、イエスは決して家族の絆を壊したくありません。神が家族の中でどのように行動するかをよりよく理解するようにイエスは私たちの家族から一歩離れて、考えるように求めているだけです。私たちに対する神の愛は、私たちが互いに持つことができる愛を無限に超えています。 私たち一人ひとりは、家族よりも「心をつくし、魂をつくし、精神をつくして神を愛する」(参照:申命記6, 5)ように召されていることをイエスは思い起こさせています。

 その後、イエスが私たちに十字架を背負うように求められたのは当然です。必要な一歩を踏み出すことなく見るなら、十字架というものはただ非人道的な拷問の道具として見えるだけです。しかし、一歩下がってみるならイエスが十字架につけられたので、十字架は生きることへの最大の愛のしるしになります。イエスと共に十字架を負うことは、イエスの過越の神秘と結びつくことであり、彼と共に愛の完成に到達することです。

 イエスは、神の国を得るためにすべてを失うように私たちに求めています。人間はすべてを所有することはできません。彼にとって最も役立つものを選択するには、必然的に何かを諦めて、捨てなければなりません。したがって、誰かを歓迎することは、自分の静けさ、自分の計画、したいことを放棄することです。神の王国を歓迎することは、私たちをそこから遠ざけるものすべてを放棄することです。永遠の愛は、自分の生き方、信じ方、愛し方の内に必要なことを整理するように要求しています。

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」とイエスは断言しました。イエスは最後の審判のたとえ話の形でその教えを繰り返しました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(参照:マタイ 25,40)と。確かに、人間関係が愛の実りとなる時に、愛であるキリストは必ずそこに存在しています。

 イエスが私たちに家族から一歩離れるように求めた理由は、お互いに近づき過ぎると愛が弱まり、時には家族の中に争いや不和や不一致を引き起こすことをイエスがよく知っているからです。一緒に暮らすのは簡単ではありません。時には、距離を置き周りの人に対する偏見や幻想を失うことを学ぶことが必要不可欠です。また、家族と一致を保つには、彼らの言うことを偏見なしに聞く方法を再学習することが大切です。それは時には十字架の道行きになることもありますが、喜び新たにされ、豊かな人生へと導く十字架の道行きです。神が私たちを導き、この愛と放棄の道を共に歩んでくださるように、一緒に祈りましょう。 アーメン。

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              年間第14主日  A 年  202379日  グイノ・ジェラール神父

                 ザカリア9,9-10     ローマ 8,9-1113    マタイ11,25-30

 今日、イエスは父なる神にささげる祈りを私たちに聞かせます。この祈りは自然発生的な感謝の祈りです。私たちにイエスをほんの少し啓示しています。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とイエスは断言しました。いったい、イエスは誰に父なる神を啓示したいのでしょうか。特別に恵まれた少数の人々にだけでしょうか、それともできるだけ多くの人々にでしょうか。 イエスは、学者や賢い人たちではなく、小さな人たちに話しかけていると言って、このことを明確にされました。それについてイエスは学識のある人や賢い人ではなく、小さな人たちに話しかけているのだと明らかに言っています

 イエスは特に苦しんでいる人、疲れている人、落ち込んでいる人に語りかけます。彼らが自分たちを押しつぶし、彼らの人生をむしばむ重荷をすべてご自分の上に降ろすようにと、イエスは私たちに勧めています。イエスは、自分のもとに来るすべての人に向かって注ぐ愛の中でご自身を啓示します。イエスを救い主として認める人々は、罪人や病人、悪魔に取り憑かれている者たちなど、父なる神の愛と慈しみを受けるに相応しい人々です。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから」とイエスは強く願います。言い換えれば、神が私たちとご自身のために整えてくださった7日目の休息に入るように、イエスは私たちを招いています。自分たちの惨めさ、あるいは知識や学問が与えてくれる保証に閉じこもるのではなく、真の安息を与えてくださる神に立ち返るように、イエスは私たちに勧めています。残念なことに、多くの人は神と共に生きることを重荷と考え、必要な休息を他の場所に無駄に求めているのです。

 神の神秘は研究や考察によっては理解できません。私たちは神と共に生きることを学びますが、それは自分自身を無にすることによって、また自分自身の惨めさを神の憐れみに委ねることによってです。そういう事が、福音が良い知らせである理由です。イエスは、律法学者やファリサイ人のように自分の誇りを示すことは決してありません。イエスは常に謙虚で柔和で、優しさに満ちている人、すべての人に気を配っています。イエスは父なる神がご自分に全てを委ねられたことをよく知っています。ご自分が父なる神と親密に一致している事、そしてご自分だけが神について完全な知識を持っている事をよくに知っています。それにもかかわらず、イエスは柔和で謙虚な心を保ち、私たちに謙遜に救いと休息を与えようとします。さらに、イエスはこのことに気がついて、神に感謝しています。

イエスは疲労、涙、試練を取り除くことはされませんが、それらをご自分にわたす可能性を私たちに与えてくださいます。イエスは私たち人間の状態を自ら引き受けて、それを軽くされます。イエスは聖霊の力によって、私たちのうちにご自分の似姿を刻みつけ、私たちが彼のように「心の柔和で、謙遜な者」となるように働いています。ありのままの自分をイエスに捧げることは、喜び、内面的な平和、休息、新たにされた生き方への道です。

 イエスは御父のうちに安息を見出していますから、私たちも御父のうちに安息を見つけるよう招いておられます。実際、イエスはこのようにして神の子であることは何かを私たちに明らかに啓示し、体験させたいと強く望んでいます。神の子どもである私たち、イエスが神を知っているのと同じように、御父を知ることがイエスの望みであり、イエスの使命です。

 「ですから、わたしたちは神の安息にあずかるように努力しようではありませんか」(参照:ヘブライ4,11)。そしてイエスを私たちの導き手であり、救い主として与えてくださった神に感謝をすることを決して忘れないようにしましょう。 アーメン。

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               年間第15主日  A年 2023716日  グイノ・ジェラール神父

                  イザヤ5,10-11      ローマ 8,18-23     マタイ13,1-23

 神の言葉は、命と幸福の約束を内に秘めた豊かな種です。しかし、それを歓迎することができるでしょうか。私たちは良質で柔らかい土壌でしょうか。それとも試練や信仰の進歩に無関心で堅くなった土地でしょうか。 あるいは、私たちは習慣の風ですぐに枯れてしまう深みのない軽い腐植土でしょうか。あるいは私たちは利己主義、高慢、赦しの否定、プライド、嫉妬などのいばらが生い茂る土地のでしょうか。

 自分自身に対するこの見方は重要ですが、それを究明するには明晰かつ正直でなければなりません。確かに神の言葉は有益な雨である、と預言者イザヤは私たちに思い出させます。この雨は大地に水を与え、肥料となり、果物や野菜を育てます。神語ると同時に、言われることを実現します。今日、私たちが歌った詩編はそれを思い起こさせました。「主よ、あなたは、地を訪れて喜ばせ、水を注いで、豊かな実りで覆われる」(参照:詩編65,1)と。空から降る雨は、作物を実らせる豊穣の使命を終えた後には空に戻って行きます。同様に、神が私たちに期待している実を結ぶために、神の言葉は必要なものすべてを十分に与えます。

私たちが実を結ぶことは、神が造られたすべての被造物と関係があります。「被造物は神の子たちの栄光を見ることを切に待ち望んでいます」と聖パウロは結んでいます。イエスが収穫のイメージで自分のたとえ話を終えたのはそういうことを示すためです。 残念な損失にもかかわらず、最終的には、大勢の人々の喜びになる、素晴らしい収穫が訪れるでしょう。その日、私たちの喜びは大きくなります。そして私たちが、毎日神の言葉で自分を養うことによって、周囲の多くの人々を満足させるのに十分なものを生み出してきたことに気づくでしょう。

 もちろん、神の言葉の受け取り方は、日ごとの状況によって、また性格やその時の身体の状態によって異なります。神は下手に種を蒔く方ではなく、寛大な方です。だからこそ、彼はどこにでも種を蒔き、惜しまずに皆に与えます。神は、すべての人がたとえ一瞬であっても、ご自分の言葉を受け入れることができると信じています。確かに、種が石の多い地面に落ちたり、いばらにふさがれたりしても神が種を幕き続けることを決して妨げるものではありません。したがって、私たちが神の言葉を受け入れくい弱さ、私たちの無関心や移り気、色々な心配事は、神がご自分の愛の恵みを広く注ぎ続けることを妨げるものでは決してありません。

 まして、私たちの弱さを見て、神は何かが芽生えることができると信じて、さらに多くの恵みの種を蒔きたいという望みをもたれます。神の目には、すべての人が実を結ぶ能力あると考えておられます。神は私たちに対する希望を決して諦めることがありません。これこそが、今日の良い知らせです。

 キリスト者である私たちの使命とは、麦の粒のように美しい穂になることです。しかしそのためには、まず、地面に投げ込まれることを受け入れなければなりません。つまり、これから起こる試練に耐えることを承諾し、受け入れなければなりません。「わたしがあなたがたを選んだのは、あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(参照:ヨハネ15, 16)とイエスは私たち一人ひとりに打ち明けます。それは私たち一人ひとりに対する神の望みであり、世界がそれを必要としていることでもあります。

ですから、聖霊が私たちに神の言葉への飢えと渇きを与え、また神と世界が期待する実を聖霊が私たちに結ばせますように切に祈りましょう。アーメン。

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             年間第16主日 A年  2023723日  グイノ・ジェラール神父

            知恵の書 12,1316-19     ローマ 8,26-27   マタイ13,24-43

 世界の中にある悪の問題は、私たち人間にとって答えのない問題です。この謎を解く鍵を持っているのは神だけでありますが、その悪の責任の一部は人間にもあります。私たちは皆、私たちの生活の中でよい小麦が毒麦と混じることをよく知っています。しかし、なぜある人は他の人よりも不幸や苦しみに打ちのめされているのか。あるいは、なぜ彼らの人生には不幸の毒麦が蒔き散らされているのか、この新たな問いには誰も答えられません。

 私たちが、善い種だけを受け継いだように見える聖人たちの生涯を考えるとき、この「なぜ」は最高潮に達します。たとえ、なぜ幼きイエスの聖テレジアがカルメル会で完全な自由への道を見つけたのでしょうか。それに反して彼女の姉のマリアは逆にそこで苦悩を耐え忍びながら暮らしていたのでしょうか。聖テレジアと同じ家庭に育ったのに、なぜ姉のレオニーが少しでも幸せに暮らせる場所を見つけることができなかったのでしょうか。世界のことなどほとんど気にせず、パーティーと酒と女性を愛したアッシジの聖フランシスコや聖シャルル・ド・フーコーは、なぜある日突然に完全に回心ができたのでしょうか。回心ができずに昔の生活に閉じ込められたままの自分たちの仲間たち以上に彼らは何を持っていたのでしょうか? これらすべての疑問は未解決のままです。

 それでも、苦しみの人類から絶えず立ち上がっているこれらすべての「なぜ?」と問う人たちにイエスは耳を傾け、今日の福音でとても奇妙な方法で答えられます。「わたしは口を開いて、たとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」(参照マタイ13, 34)と、イエスは断言します。イエスは私たちを世界の創造の始まり、つまりすべてが始まった場所に連れて行きます。なぜなら、私たちの誰も、自分の人生で見つけた良い麦と毒麦の根源ではないとイエスは説明します。初めにとても良いものを創造し、命に溢れる良いものを豊かに蒔き、それを喜ぶ神がおられます。しかしその後サタンがやって来て、人々が眠っている間に不幸と死の毒麦を蒔き散らしたのです。

 したがって、生まれて、生命に目覚めている私たちは 敵が私たちの睡眠中に悪い種を蒔いたことを全く知りません。成長しながら、人生を生き、進むことによって、私たちは徐々に小麦と毒麦を区別できるようになります。しかし、出発点では、一方では善の種が、他方では悪い種が私たちの人生に蒔かれているのです。しかし、それについて私たちが、気付くことが出来るよりも先に、悪い種が蒔かれていました。言い換えれば、「なぜ」という問題は私たちには理解を越えていますが、やがて神はそれを解決する方法をご存知なので、適当な時に、よい麦と毒麦の整理を賢くするだろうとイエスは教えています。

 たとえ話を通してイエスは神の国について語りかけます。この国で人間が特別な役割を持っています。人間の手によって、一粒の小麦とからし種が土に埋められ、パン種が生地の中に埋められます。人には蒔かれたものはすべて隠されたままで残ります。最終的な結果は人間によるものではありません。人によって蒔かれたものは、悪と死の影響にも​​かかわらず、見事に変化し、収穫物、木、または良いパンとなって命を豊かに与えます。これこそがイエスが私たちに聞かせる福音の良い知らせです。 アーメン。

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         年間第17主日  A年  2023730日    グイノ・ジェラール神父

           1列王記 3,57-12      ローマ8,28-30      マタイ13,44-52

 神の国は私たちの心の奥深くに隠されています。それは私たちが発見した宝物、珍しい真珠のようなものです。ちょうど、自然に海に流れる小川のように、私たちはゆっくりと神と神の王国に向かって進んでいます。そこには計り知れない永遠の喜びが私たちを待っています。

 創世記には、神が私たちをご自分に似せて創造されたことが三度繰り返されています。だが、サタンが人間にを起こさせることにとって、この体から栄光を奪いました。それを取り戻すためには、人は神が救い主として遣わされたキリストに倣わなければなりません。キリストになる者は、再び栄光の体を着て、神と共に永遠に生きることができるのです。たしかに、神の目標は、私たちを御子イエスの似姿にして、私たちがキリストの栄光に与ることができるようにした、と聖パウロは今日の手紙で説明しています。これは私たち全員がいつか発見する宝物です。私たちは疑いなく、王国に入るために放棄と犠牲をうことが必要だと考えています。しかし、この王国の宝を手に入れるために必要な犠牲と放棄は、のちに頂く喜びに比べればそれほど高価ではありません。永遠に残るもの、つまり神の無限の愛を得るために、余分なものを失う価値はあります。

 しかし、この宝を得るには知恵と識別力が必要です。真の知恵は、神の言葉に耳を傾け、神から真の価値観を受け取ることにあります。「主よ、あなたの教えは素晴らしい、すべての金銀にまさる・・・すばらしい宝を見つけた人のように、わたしはあなたの仰せを喜ぶ」と、今、私たちが歌った詩篇は私たちのために宣言しています。

 また、識別力を持って、イエスが勧めている通り「この宝から新しいものと古いものを取り出す」方法も学びましょう。ソロモン王と同様に、イエスの弟子は神に「識別力に満ちた心、聡明で賢明な心を与えてください」と願う人です。何を守り、何を捨てなければならないかを知る心を神に求めることが大切です。

 私たちが神に求める知恵は聖霊です。この世の誤った価値観を放棄することが非常に難しいと感じている私たちに、聖霊は次の事を啓示しています。私たちこの世の畑に探しに来た隠された宝、貴重な真珠であることを明らかに教えていま

 貴重な真珠である私たちを手に入れるために、神はイエス・キリストを通して、自分の所有物、つまり天と地上のすべての富を放棄してしまいました。(参照:フィリピ 2,6-8)神は私たちの利益を理解しており、無限の愛をもって「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように働いています」。

 今日のミサ祭儀を通して、私たちの喜びが永遠となるように、無限の愛で私たちを愛してくださる神に感謝しましょう。私たちは皆、キリストの栄光に与るように召されているので、私たちを益々キリストに似せてくださるよう聖霊にお願いしましょう。最後に、私たちが喜びをもって愛の完成に入ることができるように、私たちがするべき必要な放棄を実現すように聖母マリアの助けを切に願いましょう。アーメン。

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        年間第18主日 A年   20238月6日  グイノ・ジェラール神父

         イザヤ55,1-3       ローマ 8,3537-39     マタイ 14,13-21
 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい・・・来て、銀を払うことなくぶどう酒と乳を得よ・・・わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」と、預言者イザヤは少しユーモアを交えて人々に呼びかけ招待します。なぜなら、何も出費せずに買わなければならないからです。主は、永遠の愛の契約に参加するためにご自分のもとに来るという唯一の条件で、すべてを無料で与えてくださいます。

 女性や子供たちを別にして、五千人以上の人々を無料で養うことによって、イエスは預言者イザヤが約束したことを実現しました。この驚くべき出来事は、四つの福音書で六回も繰り返されています。この跡によってイエスは、神の約束を実現する方であることを啓示しました。この奇跡の目撃者たち、預言者イザヤの約束を思い出したかどうか分かりませんが、彼らはシナイの荒野で四十年の間、神ご自身が毎日イスラエルの民をマナで養ったことは覚えていたでしょう。奇跡の目撃者たちはおそらく、預言者エリシャが大麦の二十個のパンで百人を養った出来事も思い浮かべたでしょう(参照:Ⅱ列王記442-44)。そして、イエスは新たな預言者であるか、あるいは神から遣わされたメシアであるのではないかと考えたに違いありません。

 イエスは群衆を養い続けるだけでなく、人々を癒します。人類に対するイエスの愛は、人々を苦悩、不安、病気、苦しみ、飢え、罪、貧困から救うようにイエスを義務付け、命じています。聖パウロが教えた通りに、これらの悪いものすべてはイエスの愛から私たちを引き離すことはできません。確かに、「わたしたちは、私たちを愛し、苦しみ、死んだキリストのおかげで、私たちを圧迫するものすべてに輝かしい勝利を収めています」(参照:ローマ8, 37)。

 弟子たちはイエスとは異なった考えを持っています。夜が訪れるのを見て、彼らはただ人々を帰らせ、近くの村の店で食べ物を買うことを考えています。イエスの反応は厳しいものです。「あなたたち自身が彼らに食べ物を与えなさい」と言います。弟子たちは商業的な解決策を考えていましたが、イエスは分かち合いの解決策を提案します。弟子たちにとって分かち合うものはわずかですが、イエスにとってそれは群衆を養うために十分なものです。五つのパンと二匹の魚を分かち合い始めると、食べて満腹し、残ったパン屑は十二のかごを満たすほどに十分でした。

 聖木曜日の夜、イエスはパンの増加の夜と同じ行為を繰り返しました。「イエスは天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに与えて言った、『これを取って食べなさい。これは、あなたたちのために渡されるわたしのからだである』」(参照:ミサ第1の奉献文)命を得るためには、キリストの御体を食べ、彼の御血を飲まなければなりません。実に、2000年以上にわたり、数えきれない人々の群衆はキリストと一つの体、一つの心、一つの霊となるために世界の教会毎週日曜日に集まっています。しかし、同時にイエスは私たちが持っているものを他の人々に分かち合うように招いています。なぜなら、愛と平和、助け合いに基づく世界は、必ず神の国の門を多くの人々に開くからです。

 主が神を賛美するために私たちの口を開き、人々と分かち合うために私たちの手も開くように切に聖霊に願いましょう。愛と慈しみがあるところ、神はそこにおられるからです。 アーメン。

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       年間第19主日 A 2023813日  グイノ・ジェラール神父

        1列王記19,911-13     ローマ9,1-5      マタイ14,22-33

 恐怖や勇気の欠如は、信仰の障害となる可能性があります。確かに、恐怖は人を麻痺させ、目の見えない、耳の聞こえない者とします。このように、預言者エリヤは自分の命を狙うイゼベル女王の前から逃げ出しました。彼は落胆し、自分の召命をもう信じていませんでした。彼は死さえ望んでいました。しかし、神は彼に救いは風雨や地震、火災の騒々しさの中ではなく、静けさの中にあることを理解させました。穏やかな微風のように、神はご自分に向って叫ぶ者に静かに助けを与えます。

 聖パウロは困惑して、途方に暮れています。神の選ばれた民であるユダヤ人たちが伝えようとする真実のメッセージをどうして信じようとしないのかその理由が分かりません。聖パウロは神に呪われ、キリストに拒絶されることを望んでいます。というのもそれは、すべての人がイエスを信じることができるようになるためです。幼きイエスの聖テレジアもまた、すべての人が救われるために自分が地獄に落ちることを望みました。このような強い信仰を示した聖パウロはイエスの慰めを受け、そしてどこへでも異邦人のいるところに福音の良い知らせを伝え続けるためにイエスによって遣わされました。

最後に、イエスが湖の上を歩いて来たのを使徒たちは幽霊を見ていると思いこんで、パニック状態に陥ります。そして、聖ペトロは動いている波の上を歩きながら、強い風に対する恐怖を感じて、海に沈み始めました。イエスはすぐにペトロに救いの手を出し、また使徒たちを安心させます。イエスは自分の神性のほんの少しを示したことによって、彼らの信仰を強めました。そこで彼らは皆、「神の子」としてイエスを認識するようになります。

 人生の舟が波や逆風の攻撃を受ける時、そしてすべてが私たちに逆らっているように思えるとき、私たちが掴むべきものは恐怖ではなく、神への信頼が私たちを捉え、支えるべきです。すべてがうまくいかないときでも、神は私たちから決して遠く離れていません。「恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」(参照:エレミヤ1,8)と主は約束します。イエスもまた、聖ペトロに言ったように「恐れることはない、わたしのところに来なさい」と私たちに語りかけています。救いは、恐怖に避難することではなく、信頼を持って神に向かうことで訪れます。

 マタイによる福音書では、イエスは山の上で父なる神と共におり、同時に海の上で使徒たちと共にいます。イエスは神に向かって祈りながらも、使徒たちを助けるために彼らのそばにいます。イエスは絶え間なく父なる神に聞きますが、自分に委ねられた人々の悩みに対しても耳を傾ています。イエスは父なるを離れずに、ずっと私たちと共に留まっていると聖マタイは私たちに理解させたいのです。実に、神に捧げられた真の祈りは人々から切り離されるものではなく、また人々との交わりは神から私たちを遠ざけるものではありません。イエスご自身がそういう生き方を実現しているように、私たちもこの状況を生きることができますように。

 勇気を持ち続けるためには、しばしば詩篇の言葉を大きな声で繰り返すことが良いです。「主よ、わたしの魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます」(参照:詩篇63,9)。または「主よ、あなたの瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の影にわたしを隠してください」(参照;詩篇17, 8)、「わたしの神よ、あなたにより頼みます。どうか、私が恥を受けることのないようにしてください」(参照:詩篇25,1)などです。

 神の存在をまえにして、聖霊が私たちを平和と静けさで守りますように。また、私たちが神の言葉に対して注意深い人になり、同時に、私たちの周りにいるすべての人々に耳を傾けるように聖霊の導きを願いましょう。アーメン。

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      年間第20主日  A年  20238 20日    グイノ・ジェラール神父

          イザヤ56,16-7     ローマ 11,13-1529-32    マタイ15,21-28

 神は全ての人を救いたいのですが、その救いは選ばれたイスラエルの民を通して行われます。アブラハム、モーセを始め大勢の預言者の助けで神は自分の民を作りました。その民を通して神が全ての人々を永遠の救いに誘っています。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とイエスは言いました。またイエスは「異邦人の道に入ってはならない。また、サマリア人のに入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(参照:マタイ10, 5-6)と弟子たちに厳しく願いました。

 イエスは決められたことから自分の使命を果たしたいので、まず、神の約束を受けたイスラエルの民に救いを与えようとします。だが、カナンの女、そしてローマ人の百人隊長がイエスのスケジュールを変えました。このイエスの意見の急変が弟子たちへの教えになりました。これはまた地の果てまで福音が述べ伝えられるために、初代教会の信者たちへの励ましでした。復活してからイエス自身がそれを確定しました。「エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(参照:使徒1, 8)とイエスは決定しました。

預言者イザヤが書いた言葉の中で、既に異邦人への解放を見つけるのです。バビロンの追放から戻って来た人々が、自分の国で70年間住んでいた異邦人に出会います。異邦人たちが、建て直されたエルサレムの神殿に入ることを要求していました。そこで、預言者イザヤは神の言葉を土台にしてはっきりと宣言します。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と。

 今日の手紙を通して聖パウロはかつて異邦人であったがキリスト者になった人々にどうしてユダヤ人である自分が直接に異邦人の世話をするのか、その理由を説明します。復活したキリストと出会って回心した聖パウロは、異邦人に対するイスラエルの民の使命をよく分かりました。神はただ一つの民だけのものになってはいけない、むしろ善意の人々すべてに神の救いの計画を知らせることが肝心です。

 「神はすべての人を憐れみます」、「わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います」(参照:ローマ11,32 11,13)。また「ペトロには割礼を受けた人々(ユダヤ人)に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々(異邦人)に対する福音が任されている」(参照:ガラテ2,7 )と聖パウロは宣言し、主張します。

 イエスは異邦人の信仰の叫びを聞いて、とてもびっくりしました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」とイエスは感嘆してカナンの女に答えます。また「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(参照:マタイ8, 10)。私たちの信仰を分かち合っていない人が、自分の内にある種の真理をもっています。私たちは気がつかずにきっとそれを探し求めています。誰でも人は必ず私たちを豊かにするものを持っていますから。

 残念なことに、私たちは信仰の宝物を簡単には他の人たちに自分の心を開いて分かち合いません。聖パウロの望み、つまり「 二つのものを一つにする」(参照:エフェソ2, 14)ことを実現することは、昔も今も至難の業です。確かにキリスト教的な共同体はしばしば福音宣教に対して頑なになりうずくまって、閉じこもっています。ですから、カナンの女に倣って、自分の心を大きく開きましょう。そうすれば、イエスが言われた通り「あなたの信仰は立派だ。願いどおりになるように」となるでしょう。アーメン。

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         年間第21主日  A年  2023827日  グイノ・ジェラール神父

          イザヤ 22,19-23     ローマ11,33-36      マタイ16,13-20

  「あなたはメシア、生ける神の子です」とペトロが叫びました。彼はこれらの言葉の下に何を込めたのでしょうか。 ユダヤ人の伝統では、「神の子」 という表現は多くの人々を指すのに使用されます。それは先ず、神の民であるイスラエル、次に忠実な真の信者、そして最後に神が約束されたメシアです(参照:「サムエル記下 7,14、詩篇 2,7」)。考えずにペロはイエスの質問に自発的に答えました。そのときペロは、イエスが本当に人間となった神の子であるとはまだ考えていませんでした。ペロと他の弟子たちも、イエスが人間になった神の子であることを理解するためには、イエスの復活の出来事を経験することが必要でした。

 イエスにとって、ペロの言葉は神ご自身の啓示を明らかにしています。ペロの信仰告白は、御父がペトロとの間に築いた絆を示しています。もし天の御父がペロにイエスの本当の姿を明らかにしていなかったら、ペロは皆が考えていることを繰り返すだけだったでしょう。イエスは、父なる神だけがイエスの正体を明らかにできると何度も言いました。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(参照:マタイ11, 27)と。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」預言者の書に、「彼らは皆、神によって教えられる」と書いてあります。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(参照:ヨハネ644-45)。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とペロに明らかにしながらイエスはペロをご自分の教会の基礎、その礎とします。

 御父によって啓示されたペロは、まだ理解できないままにイエスが本当に誰であるかを語りました。次に、イエスはペロとは何者であるかを教えます。ちょうど、父なる神がイスラエルの民にとって揺るぎない岩であるように(参照:詩篇42,9、詩編18,31)。ペロは神の国の鍵、つまり教会を設立するためのイエスの権威と力を受け取る人です。 こうしてペロはイエスの神秘を理解できるドアを開く人になり、また、神の慈しみと赦しを受け入れるために人々の心を開く者となるのです。

 ペロはキリストが誰であるかを明らかにすることによって、全世界の人が神の神秘の中に入るように招きます。確かに、神の御子イエスへの信仰を宣言する私たちは、すべての人が兄弟姉妹である天国に入ることができます。信仰は私たちを父なる神と親密に結びつけます。 それは私たちを利己主義と個人主義の鎖から解き放ち、そして私たちを人類と一致させます。誰であろうと一人の人間も神の国から排除されないようにとのイエスの希望を自分のものにする信者は、自分の命を捧げることができます。

 私たちが神の子となったのは、イエスの御名を信じたからです。「イエスの名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのです」(参照:ヨハネ 1,13-14)。

 キリストへの信仰によって強められ、神の神秘を啓示するこの真理の言葉を私たちは聖パウロと共に宣言することができます。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。

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        年間第22主日 A年   202393日    グイノ・ジェラール神父

           エレミヤ20,7-9     ローマ12,1-2     マタイ 16,21-27

 たとえイエスがペトロを厳しく咎めたとしても、以前に荒野で誘惑されたときにサタンに対してしたようにイエスはペトロを拒絶しません。むしろ、真の弟子として自分に従うことだけをペトロに求めます。ペトロがイエスを教え導くのではなく、イエスに忠実に従うためにペトロは選ばれました。

 イエスの本当の弟子になるためには、私たちが望んで、自分の思い描く理想像によく合うイエスではなく、ありのままのイエスを受け入れなければなりません。弟子であることは、イエスの行くところに忠実に従うことであり、私たちが行きたいところにイエスを導くことではありません。イエスの弟子は、毎日イエスに尋ねます「主よ、今日は私をどこに連れて行きたいですか」と。キリスト者は、喜びや自由、自分の人生を好きなように生きることを提案して誘う世界の流れに逆らう人です。

 神から受けた使命のゆえに預言者エレミヤは、誤解され、侮辱され、笑い者とされました。私たちはミサ祭儀に与る度に、ペトロやエレミヤのように神の言葉が私たちに挑戦してきます。なぜなら、私たちの考えは、あまりにも多くの場合、「現世の考え」に一致するので、この挑戦のお陰で私たちの考えが「神の考え」になるに違いありません。この理由で、聖パウロが勧めている通り、ミサ祭儀の時に私たちは「自分の体と命を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げます」。

 預言者エレミヤも聖ペトロと同様に、神が彼に託した非人道的な使命に対して反対の声を上げました。「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、笑い者にされました。わたしは主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい」と預言者エレミヤは神に苦痛を訴えました。しかし、預言者の決意は神の意志に逆らうことはできませんでした。「主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」とエレミヤはうめきました。預言者エレミヤは苦しみと軽蔑に耐えながらも自分の十字架を背負うことを学ばなければなりませんでした。

 イエスに従って、彼の足跡をたどる者は皆、この試練を知っていますが、聖パウロは第二朗読でこう語っています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と。神は私たちが想像したり考えたりしたことをはるかに超える世界に私たちを連れて行ってくださいます。神は私たちを満ち足りた命へと招いています。私たちは皆、遅かれ早かれ、主が永遠の命の神であることに気づかなければなりません。 特に試練や苦しみが私たちに降りかかるときには。

 イエスと聖パウロは、私たちが自分の人生を捧げて生きなければならないことを思い出させます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(参照:マタイ16,25)と。愛、自己犠牲、寛大さは永遠に続く豊かな実を生み出します。ですから、イエスに従って、心を尽くして愛しましょう。そして、それを永遠の富として、天に積みましょう。(参照:マタイ 6,20) アーメン。



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